alone in the mountain
山の雑文
僕の師 (古田学さんのこと)

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  僕の師 (古田学さんのこと)


 僕はどこの山岳会にも属さず山岳講習会なども受けず、独学で山の技術を身につけてきた。

 だが、山岳会に入ったり講習会を受けたほうが、より短期間で正確な技術を身につけることができるのは間違いない。山での遭難は自分自身だけでなく救助者、家族など自分以外の大勢の人々に多大な迷惑・負担をかけることになるので、山岳会などで正しい技術を学ぶことはとても重要なことだと思う。これから山を始めたい人や、より高いレベルの山行をしたいと思っている人には僕は山岳会に入ることを強くお奨めする。それが高みへの一番の近道だと思う。

  そう言いながらも僕自身は独学へのこだわりのようなものがある。多少遠回りでも独学で技術を身につけたいと思っている。そうやって技術を磨き、なんとか僕は無雪期のクラシックルートや積雪期の簡単なバリエーションルートくらいなら登れるようになった。

  しかし、僕より2年あとに山を始め、山を始めると同時に山岳会に入った人がいるのだが、その人は今では僕など足元に及ばないほど高度な山行をこなしている。

 僕のメインスタイルの単独登山と、複数人で山頂を切り崩す山岳会の登山スタイルの差を差し引いても、その人の山行レベルはすでに僕の数段上を行っている。今では技術も体力もとうてい及ばない。

 登山は人と競い合うものではないが、僕は開き続ける技術の差に苛立ちを覚えるし、山行レベルの差に悔しさを覚えている。

 しかし、その「負けたくない」という気持ちが、より高い技術を身に付けようと思う原動力になり、さらに独学の道へのこだわりともなっている。


(追記:そのライバルと思っていた人物は2009年12月暴風雪の八ヶ岳に消えました…。)



 だが独学と言いながらも、僕には師と仰ぐ人がいた。

 古田学さんだ。

 しかし、師と仰いでいたが僕は実際に古田さんに会ったことはないし電話やメールもしたことはなかった。

 古田さんは登山のサイトを作っていた。
検索中に偶然見つけた「あぶねえ山屋のページ」というタイトルが僕の心をくすぐった。

 古田さんの行う山行はまさに僕の目指すスタイルだった。ソロで多くのバリエーションをこなす古田さんの姿に憧れ、なんとか古田さんの技術を学びたいと思った。

 古田さんが作るサイトに「登山のテクニック」というコンテンツがあった。
そこにはソロクライミングの方法やセルフレスキュー技術、雪山技術など数多くの登山技術が書かれていた。文字だけでは理解しにくい技術には、古田さん自身が描くイラストが付けられ分かりやすく説明されていた。

 僕は毎晩のように古田さんのサイトを訪れ、そこに書かれている技術をすべて自分のものにしようとした。平日の夜に何度も何度も読み返し、休日になると近くの岩場に行って古田さんが書いていたことを反復練習した。そんなことを繰り返し僕は少しずつ技術を身につけていった。

 毎日のように古田さんのサイトを訪れていたが、僕は古田さんにメールを出したり掲示板に書き込むことはなかった。

 それは、僕がこう決めていたからだった。
「ソロクライミングでマルチピッチルートを成功させたら報告と感謝のメールを書こう。」
 その日が来るまではひたすら技術を磨こうと考えた。


 そしてその日がやって来た。
僕はソロクライミングでマルチピッチルートに挑戦することにした。

 しかし、結果は惨敗だった。

 僕はソロクライミングの恐怖に耐えることが出来なかった。全7ピッチのルートで3ピッチ目で尻尾を巻いて逃げてきた。その夜は自分の技術と勇気のなさが悔しくて眠ることが出来なかった。

 そして古田さんへの感謝と報告のメールは先延ばしとなった。

 その敗退の翌週からさらなる猛練習を開始した。
古田さんのサイトで技術を学んでは毎週岩場に通った。岩場に行けない週はクライミングジムに通った。

 トレーニングの成果が出てきて自分自身の技術力アップに手応えが感じられるようになってきて、僕は前回敗退したルートへの再挑戦のプランを計画し始めた。

 目標は2週間後とした。
その時点でも登れる自信はついていたが、確実に登り切る為に余裕を持たせたのだ。

 そして、登り切った時に書く古田さんへの感謝のメールはどんなものにしようかと、来るべき日のことを考えてワクワクした。



 それは、目標としていたルートへの再挑戦の2日前だった。

 準備は万端だった。技術的にも精神的にも完登の自信が出来ていた。
そして、その日もいつもどおり古田さんのサイトを見に行った。

 最初はそこに書かれていることの意味が分からなかった。
「古田はもうこの掲示板に書き込むことが出来なくなりました。」
僕には掲示板のその書き込みの意味が理解できなかった。
いや、理解したくなかった。

 その書き込みはこう続いていた。



 古田は妙義で滑落死しました。



 僕は信じられなかった。古田さんが死ぬなんて信じられなかった。

 泣いた。声を出して泣いた。一度も会ったことのない古田さんを思い僕は大声で泣いた。


 古田さんへの報告メールは永遠に出されることはなかった。




 この出来事を一生忘れないものにようにしようと思い、古田さんの死から一週間後、僕はピッケルを買いに行った。そして、岳人の魂とも呼ばれるピッケルに古田さんの意志が宿るよう祈った。

 それが僕にとって初めてのピッケルとなった。


 古田さんの死を知った当時の僕は日記にこう綴っていた。

  古田氏の技術を少しでも多く身に付け、次の誰かに引き継げるような男になりたい。

 今の僕は古田さんの技術を人に伝えられるほどまだ成長していない。
だけど、もっと技術を磨き、その技術を人に引き継げるほどの優秀な山屋になりたいと僕は今も思い続けている。


 古田さん、僕はあなたの意志を引き継ぎます。

 そこから僕を見守っていてください。



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