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賑わう北峰とは違い、北穂高岳南峰には僕一人しかいなかった。
秋の空は澄み渡り、一片の雲もない快晴だった。
9月も終わりだというのに3106mの山頂は心地よい暖かさに包まれていた。
僕は滝谷ドームをソロで登るためにここまでやってきた。
目と鼻の先にあるドームは荒々しく、そして美しかった。
しかし、僕の心は滝谷ドームにはなかった。
僕の心の中にはこの言葉しかなかった。
今、彼女に会いたい。
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滝谷ドームへの未練はなかった。
今すぐ彼女に会いたかった。
時計を見た。
上高地発の最終バスに乗るためには、かなりの無理が必要な時間だった。
だけど、彼女への想いが僕の背中を押してくれた。
走るように、駆けるように僕は下山をはじめた。
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北穂高岳の山頂まで担いだ20kgの装備は、今は僕の足枷でしかなかった。だけど僕は自分の持てるすべての力をだして南稜を駆け下りた。
さっきまで見下ろしていた前穂北尾根が、気が付けば見上げる位置にあった。
高度が下がるにつれ涸沢に張った自分のテントがはっきり識別できるようになってきた。
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テントをたたみパッキングを終えるまで15分もかからなかった。
彼女に会いたい。
その気持ちが僕に無限の力とスピードを与えてくれた。
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テント泊の装備が増え、ザックは25kgになった。
だけど僕は走り続けた。
団体で歩くツアー登山者も、学生のグループ達も、ヘルメットをぶら下げたアルパインクライマー達も、僕は一気に追い抜き走り続けた。
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ザックの重さと、無理をして駆け下りるスピードに膝が軋み始めた。
まず右膝が痛み出し、右をかばう事で左膝にも痛みが出てきた。足の裏も焼けた鉄板を押し付けられたような痛みが走った。
膝なんて壊れてもいい。
今日、彼女に会えるのならば、この身体が壊れてしまってもいい。
そのためには上高地の最終バスに乗らなくてはならない。
最終バスが出てしまえば、今日中に彼女に会うことは不可能になってしまう。
滝谷ドームもいらない。
この澄んだ北アルプスの空もいらない。
今、僕が欲しいのは彼女だけだ。
今日、彼女に会ったら抱きしめてキスをしよう。
そして一言「愛してる」と伝えよう。
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横尾橋が見えてきた。
このペースで行けば確実に最終バスに間に合う。
そうだ、横尾山荘の公衆電話から今日会いに行くことを彼女に伝えよう。
僕は山荘に駆け込み公衆電話の受話器をつかんだ。
すぐに電話の向こうに彼女の声が聞こえた。
そして僕は想いを伝えた。
僕 「もしもし、今日の夜会おう!」
彼女「無理」 |
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あまりのショックに靴を逆に履いた図
おしまい
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